昔読んだ本だったかコラムだったかで、アートとデザインの事について書かれていた事を今も覚えている。
『デザインとアートは、ベクトルの向きが違う。デザインは人に見せる為に外側に向けて表現するもので、アートは自分の内側へ突き進むものだ。』と。
確かにそうだと思う。アーティストと言われる人は、自分から何かを生み出していける様に見える。また、デザイナーと呼ばれる人は常に何かと何かを足して人に魅せている感じがある。
バルサ材を削りながら思っていたことがある。”自分には何の才能もなかったんだなぁ”って。実を言えばルアーを作る際、バルサを削って形を作り、内部構造を考え、動きを整える。そこまでは出来るのだが、その後は自分には出来ない。色を塗る事が子供の頃から大の苦手なのである。
色塗りは人に頼んで行なってある。手は出せないが、口は出すんだから、頼まれた方はやりづらいに決まっている。笑。それでも快く塗ってくれるのだから、なんて人に恵まれた人生だ。といつも思う。ただ、バルサを削っていると、色々なルアーを見る。触る。すると一つ一つのルアーに凄い努力の塊を見つける事が出来る。この世に売られているルアーは、全て誰かの努力の結晶みたいなものだと思う。自分がやってる事は所詮まねごとに過ぎないのだ。そう考えていた時、バルサを削りながら気がついた。あ。何の才能も無い人生なのだ。と。才能は、有るか?無いか?のどちらかでしかない。その才能は無いけど、違う才能なら?の様な事は存在し得ないのだ。それは才能では無く得意か得意じゃないか?に過ぎない。
もっとも才能があれば、既に何かになっているのである。笑。何者でもない自分はただの凡人でしかない。もしそんなに才能がある人間がいたら、プロ野球選手はもっといるはずで、努力が才能に繋がれば、誰だってプロになれると言う事になってしまう。
そんな事を思ってしまっていた最近。がしかしその考えを経て、才能とかは、もはやどうでもよくて、好きな事を好きな様に表現する事を、見つけてしまった。
飛び抜けた才能はアートかもしれない。
好き過ぎる表現は、デザインでは無くライフスタイルそのものでありたい。



削っていたルアーが1つ着地点についた。ラタミノー零式。表層棒引きルアー。およそ8gのそのルアーは役9cm。8番フックを3つからえるシーバス用プラグである。カラーリングは、ザウルスリスペクトカラー。
益々釣りが楽しくなりそうだ。