SNSの発展は、幽霊探しとまで言われた鱸釣りのイメージを覆した。なかなか釣れないはずのシーバスは、毎晩全国どこかしらでランカーがスマホの画面越しに見れる時代だ。季節の釣り。では無く、一年中狙って楽しめるのが鱸釣りだと言う事も認知度を高めたのは時代の流れの様に思う。ここ最近世間の様子もあってか地元アングラーの数が増えている。確実に。嫌う人もいるが、自分は喜んでいる方で。益々時代の釣りが面白くなりそうだ。鱸釣りに限らず、以前も書いたが渓流釣りもそうだ。世の中が、時代が、そうさせているのだとも思う。
何はともあれ、川が流れて海があり、そこには必ず魚がいるのだという事実は曲げようの無い真実だと叩きつけられたのだ。上手いや下手では無く、知っているか知らないかだ。と言いたい所だったのだが、上手い下手は必ずある。でなきゃプロは存在しないのだから。運も実力の内。その通りだ。
いくら妄想と想像を重ねたとしても、経験という実体験にかなう事は無く、やはり年中フィールドに立っている人が魚を釣るのは当たり前で、それ以外の何でも無いのだ。通い詰めた程に経験値は増していく。釣れる釣れないでは無く、毎日の様に通い詰める事によって研ぎ澄まされていく何かが養われていく。
その何かとは、”何か”。ずっと考えていたのだが、その答えも最近ようやく気がついた。
自分が思うにその正体の1つは、”気配”だ。
馬鹿みたいな話だとも思うが、結果的に考えると釣りにおいて大切な事は気付かれない事。相手に気付かれずにいかに慎重にいかに丁寧にアプローチしていけるか?ではないだろうか。と近頃考えはじめている。
気配を殺す。とは言うが、これがいかに難しくどれほどの気を使うかは、釣果でしかわからない。これは音を立てずに静かにする事や、そっと近づく事とは、また違う。気配を殺す事が出来れば、どれだけ近づいても良いだろうし、喋りながらでも、数人でどっと近寄っても良いわけだ。
スピリチュアルな話にも聞こえなくも無いが、この気配を殺す。実は本当に重要なメソッドなんじゃ無いかと真剣に考えている。
1人で夜中に釣りをしていると、嫌でも精神はとがって、少しの物音でも時には捕食音にすら驚く事がある。その一方で、そこまで敏感になっているはずなのに、人が真後ろに来るまで気付かない事もある。これは近寄って来る人が気配を殺せているからでは無いのか?
シーバスも、捕食に夢中になっていればルアーの存在を口にくわえるまで気付け無いかもしれない。しかしシーバスも水中で漂っている時はかなり精神を尖らせているはず。そんな中でも釣る人は釣るのだから、気配を殺して近づいているに違いない。
こんな事を考えていると、忍者や007にでもならないと無理だなと、思わずニヤけてしまう。でもやはり、そこまで考えさせてくれる釣りは本当に面白いのだ。