時間と対価。

しばらくぶりの更新になってしまった。

とはいえ、やはり竿は振っていたし、調べ物も、読み物も続いている。世の中は益々先の見えない方向に向かっている様にも思えるが、“釣り”に関しては良い方向に向かっている様にも思える。それは自分が釣りに寄り添って生きているから、都合よく解釈しているに他ならないのかもしれないが。笑。

様々な釣りが凄いスピード感で進化している様に自分からは見えている昨今。ルアーのリリース速度は拍車をかけて早まっている感じもするし、道具の進歩もタイミングなのかもしれないが歩幅が広がっているようにも思える。経営的観点でみてみると、それは釣り人口が増えているのでは?とも思える。

以前よりも様々な用品のラインナップが増えている感じがしてならない。

そんな事はメーカーさんが考える事で、イチ釣り人として考える事は、その対価であると今は思う。

時間と対価は生きていく上で必ず付き纏う事であるが、その時間と対価の価値を考える年頃なのか、こんな時代だからそう思うのか。

釣りとは、趣味であり娯楽かもしれない。

誰かの為に使う時間が対価の対象になるのであれば、釣りに使う時間はプロでも無い限り、限りなく自分の時間と言える時間であると思う。

という事は、娯楽という事に当てはめる事は可能になる。

誰かの為では無く、自分の為だけに。。。

まるで誰かの歌のフレーズの様だが、自分がやっている釣りは1人の時間がかなり多い。人と釣りに行く事は年間で見れば数える程しか無く、その殆どが1人だ。

という事は、やはり自分の為だけの時間。

言い換えれば、”至福の時”なのかもしれない。

どんな展開で、どんな魚に、どんな風に出会えるのか?そんな事を365日考えながら、行ける時間に釣り場に立ち、竿を振る。

誰かの為では無く、自分が行きたいから竿を振る。当たり前の様に聞こえて、当たり前では無い贅沢な時間。

行きたくても行けない日だって、行きたくても行けない人だっているのかもしれない。

どんな魚をどんな風に、、、。この言葉ですら、もしかしたらとんでもなく贅沢な話なのかもしれない。

近頃はそんな事を考えていた。

釣りに対して、対価は無い。

自然と向き合う”遊び”の一部であり、”至福の時”でもある。

物事は、見る角度によっては全く違った価値を生み出す。

釣れる釣り、釣れない釣り。

人は24時間、誰しも同じ時間が流れている。

25時間という人を見た事が無い。

24時間を上手く使ってお金を稼ぐ人だっている。何かと向き合うのに1週間かけて芸術を生み出すアーティストだってこの世には存在する。

どんな人であれ24時間必ず同じ時間の中で生きている。

それでも人の一生はせいぜい決まっている。無限に時間を贅沢に使える人は存在しない。

そう思うと、時間の大切さに気がつく。

どうせまたすぐに忘れる事だろうが。

だったらせめて、竿の一振り一振り、一回のリーリング毎に大切にしたい。なぜなら至福の時であり贅沢な時間であるから。

もし釣れても、もし釣れなかったとしても、流れた時間に変わりは無い。どちらも同じ1時間。

釣りに行った日も、行かなかった日も、同じ1日。

折角釣り場に立てたなら、その時間を堪能すべきだと今は思う。

だから釣りとは、やはり最高の時間なのである。

馬鹿に付ける薬は無いらしい。