釜蓋朔日。

お盆という文化。

タイトルに書いた”釜蓋朔日”(かまぶたついたち)とは、地獄の釜蓋が開く日である。お盆と言えば、先祖の霊魂が帰ってくる日で”迎え火”や”送り火”のようにそれぞれ地方により異なった風習はあるものの大抵の場合、日本においての”お盆”とは所謂”お盆”であるはず。

釣りにのめり込んでからは、”お盆”といえど釣り場に向かい、年間でみても中々ここまで皆で揃って連休があるのも、”盆と正月”くらいのもので、幼馴染や久しく会う同級生なんかとも釣りに行ったりしていた。

今年、おそらく初めて”お盆”に釣り場に行かなかった。昔から、”地獄の釜の開く時期は、池や川、海などへ無暗に近づいたり、入ったりしてはならない”という言い伝え的なものの通り、”盆には水辺に近づくな”とは言われてきたように思う。

そんなものは今まで無視し続けて生きてきた。

それが今年、仲の良い釣り仲間の”ヌタイさん”からまるで伝言ゲームの様な形で、またその事を言われた。そしてそれは何か心に留めておかなければならない様にも感じてしまった。

自分の幼少期の思い出の中の”お盆”というと、今は亡き親父、祖母なんかも揃って家族で飯を食っているイメージだ。13日には夕方から迎え火を焚いて、ついでにそのまま近所の子達と花火なんかをする。その周りには酒を引っ掛けた近所のおじさん達もいたりして、大人も交えて肝試しなんかするのがいつもの常だった。14日は早朝のかなり早い時間帯から、親戚だかなんだかが家に来て、線香を上げて行くのだが、あんな早朝5時半くらいから隣の集落まで行ったりとか考えると、当時の家は何処も早起きだったに違いない。笑。15日は夕方に送り火を焚いて、そこで”お盆”というイベントは終了していた。なかなか会わない親戚が家に来たり、おばあちゃんっ子だった自分からすると、周りのお爺さんお婆さんが家に来ると、皆可愛がってくれたので楽しい三日間だった記憶がある。そしてその三日間はいつも家族で飯を食っていた記憶もある。小さなお膳に”おままごと”の様な小さな茶碗や皿がのっていて、それらに小さな料理をのせて仏壇の前に作る祭壇に飾るのが子供ながらに見ていて、どこかおかしかったのを覚えている。

自分が幼少期を過ごした集落では、盆踊りも毎年やっていた。盆に近い週末だったのか、日取りは良く覚えていないが、自動販売機すら2km圏内に無かった田舎の行事としては、ソレは小さな祭りだった。子供も大人も手隙の者が手伝いに行き、当日まで色んな準備をした記憶が少しだけ残っている。太鼓櫓が組み上げられ、ソレから四方に向けて提灯を沢山ぶら下げる。櫓に組まれた祭壇にはその年に亡くなった者の遺影が飾られ、夜通し灯りが落ちる事は無く、夜中まで太鼓の音頭に合わせ集落の皆は浴衣姿で盆踊りを踊っていた。踊り終わると、皆でその場に座り込み亡くなった者の事を話しながら朝方まで呑んで笑って、その声は静まり返った集落に響き渡っていたのを今でも覚えている。

楽しかった。

子供の頃の”お盆”は私の中では、皆で楽しむ一大イベントだった。

いつしか大人になり始める頃から、そんな事には参加しなくなっていった。自分に子供が出来、それこそ親父が亡くなる前の年くらいに参加したが、当時ほどの賑わいは無かった。

あの頃は人も多く、大人から子供まで、ぶつかるほど人がいた。どこぞの知らない酔っ払いの親父に怒られたり、浴衣姿の優しいおばさん達も沢山いた。そんな人達も今ではきっと仏壇で笑ってるんだと思う。時間が経った。

お盆に水辺に行くな。という言い伝えは私にとっては、今もにわか信じ難いがお盆に亡くなった人達の事を想う時間は大切かもしれない。

今年は自分の家族と出来るだけ一緒にいる時間を作ってみた。そうすると、こうやって忘れかけていた”昔のお盆”を思い出せたりした。

盆と正月くらいは、竿を置いて人として人と向き合う時間があった方がイイのかもしれない。