雰囲気。

子供の頃の記憶なのか、アルバムにある写真からの記憶なのか、幼少期だったり昭和後期のイメージは少し黄ばんだ色の中にあった。

物心ついた頃から、その雰囲気にひどく憧れ常に意識して生きてきた様に思う。笑。それは釣りもそうだし、ファッションや音楽でもそう。いつも自分が格好良いと思う物は、その殆どが同じ雰囲気の中にあった。中学生の頃に誰かが持って来た海外雑誌のスケートボードマガジンの写真は衝撃的で、アメリカ西海岸辺りは空気からして、そんな黄ばんだ橙色の様な世界があるんだと信じきっていた。

子供の頃に見た映画や、小さな自分が写る動物園の写真。まだヘッドライトすら無い頃の夜釣りの写真や、工事現場用のヘルメットを被った登山家の写真なんか。昭和なのか平成なのか、その雰囲気がたまらなく好きだ。

カメラは子供の頃から好きだが、詳しくは無い。撮る事が好きで、なんでもかんでもボタンを押す。自分の記憶の中では”ボタンを押す”が正しくて、”シャッターを切る”感覚は知らなかった。”写るんです”すらボタンを押しているとばかり思っていたのだから。

思えば中学生の修学旅行辺りは、”写るんです”なんかの使い捨てフィルムカメラが大流行していて、皆んな持っていたようにおぼえている。当時はコンビニやクリーニング屋、スーパーのレジですら”現像承ります”の旗がなびいてた。

よくよく考えると、デジカメの流行時間は短かった様な気もする。理由は多分”携帯電話”の進化と関係してなくも無い様な。その辺の知識は乏しいのだが、手軽に撮れる様になってからは意識的に自分からそこを目指す事は遠退いていたかも知れない。

ここ数年間、釣りを通してかなりの枚数の写真を撮った。撮っていく内に”変な拘り”が見えて来てはいた。以前も書いたし、他でも結構言ってはいるが、自分の”釣り”というかスタイルは、時おり”昭和”への憧れが強く感じる事がある。

しかしそれは、”昭和”では無かったのかもしれない。”ノスタルジック”と言う言葉の方がしっくりくる。

遥か遠い記憶への憧れの様な。そんな気分。

先日実家に帰ると、親父が生きていた頃の遊び道具がいくつかそのまま置いてあった。見ればフィルムや、写真に関する本や資料が無数に出てきた。母が言うにはかなり若い頃まだ母と出会う前から親父はカメラに没頭していたらしく、雑誌や新聞にも写真を提供していた頃もあったんだとか。

そんな話しは殆どした事が無かったし、カメラを触らせてもらった事すら無かった。亡くなる前に、もっと話しをしておけばよかったと今深く思う。一眼、二眼、レンジファインダーにコンパクトまで、色んなカメラを持っていた父親。

どんなファインダーを覗き込んでいたのかは、全く知らない。登山や旅行が趣味だったのは聞いた事があったが、ここに来て同じ方向を見ていたのかもしれないと思うと、少し寂しい気持ちにもなる。

“百聞は一見にしかず”とは本当にそうだなと。いつも思わされるのだが、こと釣りに関しても同じで、自分は気になるとやってみる。読んだり聞いたりした事より、実体験が1番だと感じるからだ。

やってみて、わかった。

これだった。探していた”雰囲気”。それは”昭和”や”平成”と言った時代の年号では無く。

フィルムが写し出した世界観。

この写真はデジタルミラーレス一眼レフで撮ったモノで、もちろん好きな写真の一枚ではある。

こっちはフィルムカメラの一眼レフで撮った方だ。”雰囲気”が抜群に違う。

機械の技術と進歩はとんでも無く凄く、iPhoneのカメラはもうむしろ携帯電話のカメラと呼んでいいのか?と思えるほどの性能だと思う。

ただ、

“ただ”である。それはもしかすると”好み”の問題かもしれないが、質感が全く違っていた。

ミラーレスで撮った写真は、綺麗なのだ。

そう。つまり綺麗過ぎる。全てが綺麗。ボケも含めて綺麗過ぎる。どうやったら、ザラついたというか、あのアナログな感じが出るのか?エフェクトか?フィルターか?と色々やっては見たけれど、結局元々が綺麗な物はどうやったって、”綺麗”におさまる。

フィルムで撮った写真は、美しい。

ボケも色味も、下手したらブレブレの失敗した写真ですら”美しさ”が見てとれる。

憧れでしかないが、その雰囲気こそが探し求めたモノだったのかもしれない。